2006年11月07日(火) 「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまで身をお隠しになるのでしょうか」詩篇89:46
「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまで身をお隠しになるのでしょうか」詩篇89:46
詩篇にも色々な表現で出て来るが、 しばしば神はご自身の臨在を伏せ れる。それは私達が神ご自身より も、喜びや、感情的な高まり、神 体験を求めるからだ。臨在を喜び もって神は現して下さる。しかし、 「体験や感情」に依存しないで 「神ご自身」に依存するように、 時に感情的なものを取り除かれる。 つまり、何も感じなくとも・・恵ま れているように<感じ>ないし、 喜びの高揚感も無い・・そんな時も、 感情に振り回される事なく、神に 従って行けるようにだ。その時も 正しく神は共におられるし、神は かつて一度もあなたを離れた事が ない。感じようと感じまいと、神 に「信頼」して行く事を学ばされ る。あなたはどうだろう。 もし感情的なものを求めているな ら、必ずこの所を通される。信仰 は感情ではない事を学ばせられる。 何も感じなくとも心配無い。神に 信頼していよう。エマオ途上の主 は二人の心が燃える時も、燃える 前も一緒に歩いていて下さったよ うに、感じようと感じまいと、主 は今あなたと共におられる。 ----------------- 聖霊様に満たされた高揚感は何も のにも変えがたいが、変わり映え のしない日々のように思われても そこに主はおられる。何という幸 いだろう。