2007年10月10日(水)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3  

   
あるカルト教会から脱会した人が、指導
者から 最後に言われた言葉があった。
「もし信じるだけで救われるのなら、誰
も何もしない」。それなら教会にとって
困るわけで、神に対する恐怖をマインド
コントロールで植え付け、信徒は、献金
や伝道や活動を恐怖に駆り立てられて行
ってゆく。しかし、マインドコントロー
ルゆえ、それらすべて自分の自由意志で
行っていると思っている。そこに愛はな
い。「信仰による救い」が全面否定され
ている事になる。しかし、もし私達も、
献金や、伝道活動や、奉仕する事により、
神の愛を得ようとし、神に、又、人に認
めて貰おうとしているなら同じだ。恵み
でなく律法の下にいる。何かを提供して、
見合うものを自分の手に入れるのは、そ
れは報酬だ。それなら雇用関係だ。私達
は雇い人であり、主人に労力と時間を提
供して給料をもらう。あなたの信仰生活
はこの状態だろうか。恵みは違う。一方
的に与えられるものであり、プレゼント
だ。誕生プレゼントを貰ってお金を支払
わない。恵みとは一方的な神からのプレ
ゼントだ。労働なしに給料をもらい、ボ
ーナスまで貰う事だ。驚くべき恵みだ。
そして奴隷や雇い人でなく子であり、父
親の愛を全身に受け、莫大な財産を受け
継ぐ。救いのために何もしなかったよう
に、信仰生活とは恵みによって、御霊に
導かれ、自発的自由意志で、感謝ゆえに
神の愛に応えて行くものだ。そこには愛
があり、いつも喜びと平安がある。
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福音に「強いられて」というのは一切な
い。微塵もない。最初から最後まで自発
的自由意志で、動機は愛だ。信仰が重荷
で、ねばならない状態なら肉であり、福
音からそれている。恵みに立ち返ろう。