2025年10月05日(日)

「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに気合わせ、 彼を見てかわいそうに思い、近寄って・・」ルカ10:34



当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマ
リヤ人が、通りがかりの負傷したユダヤ人を助けた。サマリ
ヤ人の動機は、かわいそうに思う「同情」で、何の下心も無
かった。あわれみとは、かわいそうに思う心+行動だ。同
情だけでなく、行ないが伴う。彼は、傷を負い倒れている人
に、自分に出来る事をした。

まず、関わる事を避けずに「近寄っ」た。携帯していたぶどう
酒は消毒用に、オリーブ油は薬として、適切に手当をした。
予定変更し、自分の家畜で宿に同行、更に一泊し、親身に
介護の上、費用も全額負担した。最後まで、至れり尽くせり
だ。愛するとは、犠牲を払う事だ。自らの労力、時間、金銭
を突如の必要のために、彼は惜しまずに献げた。

犠牲を払わずして、愛する事はできない。愛するとは献げる
事だ。そして、彼は自分の用をするために出向き、自らの責
任を果たし、再び帰りに、お世話をした。自分の責任を放って、
人の世話するのではない。自分を最も必要とする家族を顧み
ず、人の世話ばかりに走り回るのはおかしい。まず家族へ
の責任は果たし、尚且つ、周囲へ、自分に出来る事をして行
くことだ。

御霊が秩序正しく導いて下さる。今、何か御霊の示しがあれ
ば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は、関わるのが面倒で
逃げた。言い訳は何でも出て来る。誰が、自分の隣人かで
はなく、自分が、隣人になる事が言われている。祈りなくして
は出来ない。導きに従えるよう祈ろう。御霊が助けて下さる。

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良きサマリヤ人は、主イエスだ。傷つき倒れた旅人は自分だ。
主は大きな犠牲を払い、助け、いやして下さった。自分を、主
に明け渡す時、御霊によって、御霊の力を受けて、誰かの隣
人とならせて下さる。