2009年06月05日(金)

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63 


                          

信仰人生で、ある時、試練が立て続けに臨む事を経験する。これでもか、これでもかと、次々と苦しみが容赦なく襲い来る。

ある人が、親が倒れ、介護生活に入り、心身疲労が溜まる中、子供が警察沙汰を起こした。悩みと苦しみ、非常な痛みの中、更なる試練が臨んだ。信頼していた人の裏切りに会い、多額の負債を抱え込んだ。

もう心もボロボロで、立ち上がる気力もない。
うずくまったまま、何もできず、失意のどん底だった。まさにどん底を経験した。

しかし、そのどん底に主がおられたのだ。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」が光のごとく心に臨んだ。

それは、神が自分に対して語られた、霊でありいのちなる言葉であった。
心に光が射し込んだ。信仰がよみがえった。その言葉は、沈んだ心にあかりをともし、目を上げさせ、失意から信仰へと、死から命へと生き返らせた。

主のあわれみは尽きず、自らの力が尽きた、その時にこそ、真に主に出会う。
無力を知る時こそ、大きな恵みの時だ。神の口から出る言葉は、どんな状況であろうと、私達を失意の渕から起こし、新しい力を与え、生かしてくれる。
---------------------
主の言葉が真に心に落ちてくる時は、例えそこが闇の底であっても一番幸せな時だ。自分の内がどうであれ、周りの状況がどうであれ、神様を見上げる事ができるなら、そこに神様のいのちが注がれる。