2010年05月09日(日)

「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8

王の王、主の主であられた方が、神としての栄光も権威も捨て、私たちのところ
へ来て下さった。何の不平不満も無く、黙って、苦難の道を歩まれ、その最期は
最も惨めで、悲惨で、残酷な十字架の死であった。

鞭打たれ、罵られ、嘲られ、つばきされ、すべて私たちの罪を負うためであった。
しかし、私たちは、ほんの少しでもプライドが傷つこうものなら、もう大騒ぎだ。

憤慨し、傷つけた相手を決して赦しはしない。ちょっと批判されたり、無視され
たり、非難されただけで、荒れ狂う。プライドが高いのだ。自我に少しでも触れ
られたら、いきり立って、相手を容赦はしない。

主は、自分を捨て、自分の十字架を負って、従うように言われた。自己主張でな
く、自己防衛でなく、「自分を捨て」と言われる。主に従う道は、へりくだりの
道だ。この世界と正反対だ。

この世界は自己主張、自己実現・・、その根は「自己」「自己」だ。すべてが詰ま
るところ「自己」のためだ。その自己を捨てて、神の御心を求める。自己中心か
ら、神中心に歩む。これが主に従うことだ。[

「自分、自分」と、自分を通すのでなく、へりくだるところに主の祝福がある。
これは神の定められた方法であり、これ以外に祝福はない。水は低い方、低い方
へ流れる。自分の思い通りにしたいのが、自我。それを捨てて、へりくだり、神
の御心に歩もう。この世には決して無い、御霊の喜びを経験する。

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腹が立つ事、傷つく事、不満に思う事があっただろうか。、それらをたどると、
すべてが強烈な自我に行き着く。自分、自分・・。どこまでも自分。主と共に肉
が十字架につけられた事を今日も認め、目の前の事態を受け入れられるよう祈ろ
う。それが自分に死ぬ事だ。出来ないからこそ、祈りを備えて下さっている。