2010年11月08日(月)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3


信仰生活の中で、時に、なかなか祈りが答えられない事を経験する。祈りは学校であり、祈りとは学んで行くものだ。最初からよく祈れるわけではない。実践の中で教えられて行く。祈りには原則があり、御心にかなう祈りだけが答えられる。

御心でない祈りは幾ら祈っても答えられない。つまり、御心にかなった祈りを知るために、祈るわけだ。祈りの中で、自らの祈りが軌道修正される。動機が正され、目的が正され、核心に導かれ、御心にかなう祈りが与えられて行く。又、祈りの中で、自分自身の姿が見せられ、砕かれ、整えられて行く。

ある人がイベントの祈りにあるアイデアが浮かんだ。良い案であり御心を確信し、進めるがギクシャクして思うように行かない。皆の一致が得られない。祈りで得た案であり、更に祈るが、事は進まない。イラ立ちの中で、ある時祈っていて、自分の頑なな自我を示された。

確かに示された企画だが、意見を異にする人々に反発し対抗し、何が何でも遂げようとする、内に潜む強烈な「自我」に気づかされた。心から悔い改め、自分自身も企画も主に明け渡した。するとその後、不思議に、事が前に進みプロジェクトが組まれ実現して行った。祈りの答えと共に、私たち自身を造り変え、整え、
成長へと導いて下さる。
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祈りの中で自分を知り、御心を知れる。長い間、苦悶しながら祈り続け、ふと気づいたら楽になってることがある。自分の欲しい答えを握って祈り続けていた事が示され、答えを委ねていけた。祈りの中で砕かれ祈りが変わって行く。