2011年03月09日(水)

「あるサマリヤ人が・・彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて・・」ルカ10:34

良きサマリヤ人の動機は「同情」であった。それ以外の何の下心も無かった。憐れみとは、かわいそうに思う心プラス行動だ。単に感情的、感傷的な同情でなく、行ないが伴っている。彼は、目の前の苦しんでいる、助けを必要とする人に自分に出来る事をした。避ける事をせず、「近寄って」ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。

自分の家畜を使い、自分の予定を急きょ変更し、宿に同行し、一泊し親身に介護の上、費用も全額負担した。至れり尽くせりだ。愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要のために、彼は惜しまずに犠牲を払った。犠牲を払わずに愛する事は出来ない。そして、彼はきちんと自分の仕事をするために出て行った。自分の仕事をし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を放って、世話するのではない。

自分の家族を放っておいて、人の世話をするのはおかしい。まず主から自分に与えられた責任は果たすべきで、尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。御霊が導き助けて下さる。今、御霊の示しがあれば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は保身のために、関わりたくなくて、その場を逃げ
た。「自分の家畜に乗せて」自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されているなら従おう。「こういう人は、その行ないによって、祝福されます」の通り、豊かな実を刈り取る。
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自分の愛せる人を愛するのはたやすくても、自我から一歩出て隣人に近寄り愛することは難しい。主が私達に注いで下さった犠牲の愛を、少しでも職場や身の回りの人々に行為として注いでいこう。主が助けて下さる。