2011年08月09日(火)

「私も、失うときには、失うのだ」創世記43:14



エジプトで総理大臣になったヨセフのもとへ、食糧を求めて、兄弟達がやって来た。以前、ひどい事をした兄弟達だった。ヨセフはシメオンを人質にして、ベニヤミンを連れて来るようにと言い、食糧を持たせて帰らせる。やがて、その食糧は尽きた。再度食糧入手のために、どうしてもヨセフのもとへ行かなくてはならない。ヤコブは、ベニヤミンを手放す事を渋り続けていた。しかし、シメオンが捕らわれたままであり、食糧もどうしても必要で、ベニヤミンを連れて行くしかない。

ヤコブはヨセフを失い、ベニヤミンを更に偏愛していたのかも知れない。ベニヤミンもシメオンも必ず連れて戻るとの、ユダの強い説得により、ヤコブは心動かされ、決心する。「私も失う時には、失うのだ」と。これは、ヤコブが、神にいっさいを明け渡した信仰の言葉だ。ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言った。そのように、主は取られるが、また、与えることもできる。すべては、主の御手の中であり、主のお心のままにとの信頼だ。

ヤコブは、ヨセフを失い、ラケルも死別し、シメオンは人質に、最愛のベニヤミンまで失うかも知れない。しかし、失うまいと、固く握りしめて放さなかったベニヤミンを神に渡した時に、ベニヤミンを再び得て、思いもよらなかったヨセフまで取り戻し、もう一度家族一つにされ、飢饉の中、命をも救われた。今、あなたの堅く握りしめているものを、明け渡すよう示されているだろうか。
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手放す先にある祝福を見つめて、神が明け渡すよう言われているものを手放せるように祈ろう。失うときには、失うのだと何があっても御心の中にいる幸いを覚えを平安を生きよう。