2011年09月08日(木)

「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


私たちは、日々主と交わり祈りをする。主は祈るよう勧められ、祈りに答えると約束されている。「求めよ。そうすれば与えられる」と。しかし、今までの信仰生活の中で、祈りが答えられなかった経験があるだろう。それらは良い経験であり、祈りをよく学べる時であり、祈りにおいて成長して行ける時だ。祈りは学校だと言われている。一段階〃学んで行くものだと。

赤ん坊がすぐに歩けないのと同様、すぐに祈れるようにはならない。時間をかけながら、主が身につけて行って下さる。答えられないその祈りは、主が聞いて下さったが、「ノー」が答えだ。つまりちゃんと答えて下さっていて、主の意志は愛をもって「ノー」いう事だ。しかし、「イエス」の答えしか眼中に無いなら、主の「ノー」を受け取れない。いたずらに意気消沈し、失望落胆してしまう。

時に明確な「ノー」の答えがある。主の「ノー」を受け入れられるよう祈ろう。私たちの願いが、私たちにとって最善でないという事だ。主は更なる良いものを用意していて下さる。又、すべてに神の時がある。受けるに最も美しい時がある。与えて下さるが、まだ時期尚早で、「待て」が答えかも知れない。又、私たちの求める「動機」が間違っているので、正されたいのかも知れない。自己中心に求めるなら、自我が更に強固になってしまう。主は祈りを学ばせて下さっている。
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叶わぬ祈りも御父の答えと深い信頼を持って受け取ろう。どんな祈りにも耳を傾け聞いていて下さる。積みかさねる祈りか、方向を変えて祈るのか、答えを切に待ちながら成長して行きたい。