2011年11月08日(火)

「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8 


                        
ヨセフは兄たちに妬まれ憎まれ、隊商に売られ、異国の地エジプトへ。ヨセフはどんな思いであったろう。しかし「主が共におられたので」そこで主人の好意を得、信頼され、重んじられた。だが主人の妻によって陥れられ、無実の罪で監獄に。異国の地で、奴隷より更に悪い囚人となった。投獄の身になり、それも濡れ衣であり、自分は悪い事はしていない。ヨセフの心はいかばりだったろう。

そこでも「主は共におられ」ヨセフは模範囚となり、監獄長の心にかない重用された。絶望的な状況の中で、「共におられる主」を信じて、ヨセフはその場〃で、自分にできるベストを尽くして生きて行った。目の前に起きている出来事と状況に、主の主権と御手を信じたから、主に委ねる事ができた。結果的に、神の摂理のゆえに、先にヨセフがエジプトに遣わされ、飢饉からヤコブ一族を救うことになる。

こういう事だったのかとパズルが埋まる時、神の深いご計画が見えて神の栄光が現れる。ヨセフは、兄達への憎しみや責めを越えて「私をここに遣わしたのは神」と信仰に立つ事ができた。兄たちの悪巧みでなく、信仰により背後の神を見ていた。目の前の状況を、神のメガネで見てみよう。意図があり目的があり、計画があり、必ずパズルが繋がり、「私をここに遣わしたのは、神」とわかるようになる。
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神のご計画の目的や意味は何だろうとの思いで、今の状況を見て行くなら、落ち込んだり傷つくことから守られる。意味のないことなどないのだから。今わからなくても最善を期待し先を待ちのぞもう。