2013年01月09日(水)

「祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである」ルカ19:47



祭司長、律法学者たちは、主を殺そうと狙っていた。主が「神を冒涜した、人間でありながら自分を神とする」と。しかし、本音は、主が来たことにより、自分たちの立場が危うくなるためだった。神のことなど、どうでもよく、自分たちの利得を守りたいだけであった。主の出現で、本来は悔い改め、真の信仰に立ち返る機会であったが、彼らは、自分たちにとって脅威であり、都合の悪い主を、抹殺しようと狙った。そして、この後、殺害計画を実行し始めて行くことになる。

彼らは、主が都合悪かったが、私たちの心はどうだろう。主を信じ、主を心に迎えている。しかし、心の中は、どうなっているだろう。主ではなく、自分が中心に座しているだろうか。主のための自分ではなくて、自分のための主だろうか。それなら、自分たちも同じだ。肉は、どこまでも自分が神であり、自分が王座に座り、自分の思い通りに生きたい。肉は、主に、王座に座られるのが嫌であり、都合悪いので拒む。

しかし、主は、この肉を十字架につけて下さった。その信仰に立ち、自らを、主に明け渡して歩む時に、御霊に導かれて、新しい歩み、主に従った歩みをして行ける。自分を守るために、自分を通すために、決して放せずに握りしめているものがあるだろうか。それを主に明け渡して行く時に、自分の利得のためでなく、御霊に導かれて生きる者に変えられて行く。
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明け渡せないものが示される度に、信仰のメッキがはがれて行く。主の御心に逆らい、はむかいはしなくても、上手く自我と共存し、安心してはいないだろうか。