2013年10月08日(火)

「・・彼らは『わかりません』と言った・・そこでイエスは彼らに『わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがに話すまい』と言われた」マルコ11:33 



祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によってしているのかと、主に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは天から来たのか、人から出たのか」と。天からと答えるなら、ではなぜ信じないのかとなり、人からと言えば、群衆は預言者だと思っているので、どう思われるかが恐い。それでどちらの側にも立たず、「わかりません」に、逃げ込んだ。結局、真理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われるか、自分の立場を守ることが判断基準であった。

時々、祈っているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないだろうか、心探ってみよう。態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。突き詰めず、あいまいのままにしておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、こっちにも良い顔をし、人に良く思われたい。どちらも手に入れたい。

しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わかりません」と逃げないで、「人が恐いです」「中途半端な者です」「犠牲を払いたくありません」と、ありのままの自らの姿を認めよう。そして「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、主は話して下さり、必ず御心へと導いて下さる。
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あいまいにして逃げている問題を主に告げた時、祈りの中でじっくり主が向き合わせて下さった。恐れの正体も見せられ、向き合うために具体的に祈りが与えられた。主の真実の中に歩みたい。