2014年11月08日(土)

「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け・・口に 手を当てて水をなめた者の数は三百人であった」士師記7:4



ギデオンの当時、イスラエルは絶えず侵略を受け、苦しい状況にあ
った。神はデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。
呼びかけに32,000人が集まった。しかし、相手は135,000人の大軍
で、圧倒的不利で、勝ち目はない。だが、神は極めて不思議な事を
された。

ギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じられ、最後
にはたった300人が残された。その300人で戦うと、ギデオンの大勝
利に終わった。この時、神はギデオンに兵士を減らす理由として
「大人数だと自分の手で救ったと、自分を誇るから」と言われた。

この戦いの勝利が人間でなく、神の力によるものと明確にするよう
に、あえて兵士の数を減らされた。私たちは、自分がもっと強けれ
ば、能力があればと思うだろうか。しかしもし強ければ、神の働き
を自分が奪い、自分を誇り、自分の栄光にしてしまう。信仰的体験
さえも、肉は誇る。

パウロは、素晴らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられ
るという、特別のものだった。パウロも、自分を誇る弱さがあり、
そのため余りにも大きな特別な恵みに、高ぶる事がないように、と
げが与えられたと言っている。苦しく辛いとげであったが、それに
よって高ぶりの罪から守られた。

高ぶりからの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい
啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。こ
の世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という
恵みだろう。

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もっと能力があれば、時間があれば、財力があれば、体力があれば
と人間は思う。しかし、主は、主の栄光を現わすために、それらは
何の問題も無いと言われる。問題は自分の力に頼るのでなく、主に
頼るということだ。その時、主の力が現われる。