2014年12月08日(月)

「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10:19



「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」、邪悪な良心と
は、主の十字架の血潮だけでは、心が満足できないため、それだけ
では足らないとして、そこに行ないをプラスする。つまり、自分の
善行によって、受け入れてもらおう、愛されようとすることだ。

もし、主の愛を得ようとして、受け入れて欲しくてする奉仕や献げ
ものなら、人間の力によるものであり、それは主の十字架を無意味
にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法に
よって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」だ。

主はいたずらに死なれたことになってしまう。良心のとがめが辛く
て、嫌で、良心のとがめを無くしたくて、追い立てられるように、
奉仕や献げものや善行や親切をしているだろうか。そうなら、それ
は邪悪な良心だと言っている。良い事をして、良心をなだめ、とが
めを消そうとする。

例えば、悪い態度をとり、良心のとがめを感じると、親切な行ない
で返して、自分の内でチャラにする。何か良い事をして、良心をな
だめる。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私た
ちの良心のとがめを消し去る、御父へのなだめの供え物であり、と
がめを取り去る。

平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。
主の血潮以外のものがあるなら、きよめていただこう。主の血潮に
のみ拠り頼もう。
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失敗もするし、従えない弱さもあるが主はとりなしてくださり、そ
のままで主に近づいて行ける。主の十字架を感謝して受け取ってい
こう。主にある喜びを奪っていく声は御霊の促がしとは違う。