2015年02月06日(金)

「そこで、イエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか』」マルコ10:51



バルテマイは、こじきだった。人々から物乞いをして生活していた。
人々から金銭を、物を、恵んでもらって生きて行っていた。だから、
主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時に、金銭や物を
求めても不思議はなかった。しかし、主に求めたものは、金銭では
なかった。「目が見えるようになること」だった。

それは、この方にはそれができるとの、信仰があったからだ。それ
がなければ、求めることはしない。彼には信仰があった。その信仰
は「私をあわれんでください」との叫びとなった。彼を黙らせよう
と、大勢にたしなめられても、黙るどころか、ますます叫び立てた。

もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、叫び続けること
などしない。又、まず主に求めもしなかっただろう。彼は必死だっ
た。この時、このチャンスしかない、二度と機会は無いと全身で叫
んだ。ザアカイも同様だ。今を逃してもうチャンスは二度と来ない
と、木にまで登った。

もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、ザ
アカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が残されているだけだ
と、絶対にこのままでは帰れなかった。主はその心の底からの求め
に、目を留め、答えて下さった。私達はどうだろう。

バルテマイの求めがあるだろうか。与えられても与えられなくても、
どっちでもよい程度のものだろうか。又、はなから諦めてしまって
いるだろうか。彼は何も出来なかった。唯一「あわれんで下さい」
との叫びだけが「できた」。この神への求めを、神は待っておられ
る。そして喜んで下さる。
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主の問いかけに何と答えているだろう。家族の病の癒しを祈り、一
日の祝福と守りを祈るが、本当にあわれみを受けたいところを素直
に求める信仰で主に差し出しているだろうか。