2015年04月08日(水)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



待ちに待ったイサクを与えられて、大きな喜びと幸せの中にいたア
ブラハムに、後にも先にも最大の試練が臨んだ。最愛の子イサクを
全焼のいけにえとして献げよというものだった。一瞬耳を疑ったか
も知れない。しかし、これは普段から慣れ親しんでいる主の御声だ。
間違いはない。神が奇跡により与えて下さったイサク、それを取ら
れるのだろうか。

しかしイサクこそは約束の子であり、イサクから子孫が増え広がる
はずだ。イサクか死んでしまえば、その約束はどうなる?断たれて
しまうではないか。様々な思いが駆け巡ったろう。しかし、アブラ
ハムには、神への深い信頼と確信が培われていた。これは確かに神
の御声であり、示しだ。もしイサクに死が臨んだとしても「神には、
人を死者の中からよみがえらせることもできる」。

アブラハムは神を信じた。それで「翌朝早く」ぐずぐずせず直ちに
神に従った。イサクと従者と共にモリヤの地に向かった。そしてイ
サクをいけにえとし、刀を振り上げほふろうとした瞬間、神が制止
された。そこには、代わりの雄羊が備えられていた。神に従う道に
は、必ず「主の山に備えがある」。

「神はアブラハムを試練に会わせられた」私たちも試練に会う。し
かし、その試練の中にも、主の山の上に必ず備えがある。この事を
信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中なら、まっ暗闇の
中で信じよう。「主の山の上には備えがある」。
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神の約束は絶対だとの信仰で不信仰に勝利できた。アブラハムの試
練には及ばない小さなことでも右往左往するが、御言葉を信じ、主
の山に備え、を経験していきたい。