2016年04月08日(金)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15




エルサレムから、郷里エマオに向かう二人の弟子たち。彼らは、主
が十字架で死なれた事を知っていて、女たちから、主のお墓が空に
なっていた事も聞いていた。それ以前に主は、あらかじめ弟子たち
に、十字架の死とよみがえりを語っておられた。しかし彼らは理解
できていなかった。非常な落胆と失望で、話し合ったり、論じ合っ
たりしながら、「暗い顔つき」で郷里への途上だった。

するとそこに主が来られ、かたわらを歩かれた。しかし、彼らには
それが主イエスだとわからない。「目がさえぎられていて」と。
「話し合っているのは、何のことか」と主が声をかけられた。する
と主に向かって、「イエスのことです」と、語り出した。この方こ
そ贖って下さるはずなのに、なぜ十字架で死んだのか、主のみから
だが無いとは、どういう事なのか。

主は、そんな彼らを「信じない、心の鈍い人たち」と、原因は「不
信仰」だと言われた。そして「信仰」を与えようと、主の方から近
づかれた。そのために御言葉を語られた。この事について聖書全体
から解き明かされた。彼らは聞く姿勢を持ち、熱心に耳を傾けた時
に、不思議に心が燃えて行った。

更に聞きたくて、別れ道に来た時に、無理に願って主を引き止めた。
するとその食卓で、目が開かれて、主だとわかった。主の方から弟
子たちに近づき、御言葉を語られた。私たちにも近づかれ、御言葉
を語って下さる。耳を傾けよう。そこから目が開かれ、信仰へと変
えられて行く。
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目の前の期待や思い込みですぐに主が見えなくなり目が塞がれる自
分の姿だ。死から勝利し復活の主が共におられる。聞く耳を持って
尋ねるなら主から学べ、心は新たに熱くされる。