2016年08月09日(火)

「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」マタイ22:4


王が、王子の結婚の披露宴を主催した。しかし招待した客は「来た
がらなかった」。そこで再度、別の者を遣わし、尚も招いた。とこ
ろが「彼らは気にもかけず」、無視して、畑に、商売にと出て行っ
た。神の事、永遠の事より、今の地上での事柄が心を占め、目の前
の事に忙しい。王や祝宴などどうでもよい。大切なものが、畑、商
売であり、この世の事だ。

そこで、王は、彼らはふさわしくなかったので、通りで出会った者
を皆、ことごとく招くよう命じた。片っぱしから呼んで来たので、
会場は一杯になった。ところが、そこに礼服を着ていない客が一人
いた。すると、王は怒って外に放り出した。道で、突然声をかけら
れるわけで、誰も礼服など持っていない。この礼服は、すべて主催
者側で用意された。

だから放り出された人は、王の礼服を、故意に拒否した事になる。
彼は、通りで招かれ、招きは拒まずに来たのだが、王の前に出る「礼
服」は拒んだ。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」こ
の客のようだろうか。王の礼服は不要で、自分の服で良い。自分の
功績、自分の力を捨てない。

自力で、自分の良い行ないで、義と認められようとする事だ。神よ
り、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否し、礼服を拒む事だ。
王の礼服を着て、主と一つとなり従って行こう。「何もかも整いま
した。さあどうぞ」肉の力は不要だ。御霊が何もかも整え、力を与
えて下さる。その時、主の披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかれ
る。
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主の新しい衣を与えられているのに、自分の衣も脱ぎ捨てられず、
自分を頼り汲々としてしまう。主から知恵も守りも赦しも与えら
れている。主の新しい衣を纏い、生き生きとした信仰生活を送ろう。