2017年04月08日(土)

「ようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、 話を聞いたり質問したりしているのを見つけた」ルカ2:46


主が12歳の時に、ヨセフとマリヤは過越の祭りのために、エルサレ
ムに上った。そして帰路に着くが、主は、まだとどまっておられた。
1日歩いた後、我が子が見当たらない事に気づき、心配と不安の夜
を過ごし、翌日、都に引き返した。都に着き、3日目に都中を探し
回り、やっと宮で見つけた。

教師たちの真中で、話を聞き質問していた。人々はその知恵と答え
に驚いた。両親は驚き、心配し捜し回った事を告げた。すると主は、
「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのです
か。」と答えた。主は肉の父ヨセフと、霊の父がいる事を明かされ
た。ヨセフとマリヤは御使いからの託宣、数々の預言、奇跡による
誕生等を通して、イエスが神の子であることを理解していた。しか
し、いつしか肉親、我が子になっていた。

主は両親に、自分は神から来て、メシヤとして遣わされた事を思い
起こさせようとされた。その時、両親には意味がわからなかったが、
マリヤは心にしっかり留めていた。そして主は一緒に帰り、両親に
仕えられた。主は神の子であるとの自覚の後、仕えるために帰られ
た。

真の信仰とは、人に仕える事となって現れる。仕えるとは、へりく
だって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことだ。へりくだ
らなければ、仕えることができない。又、主は「必ず自分の父の家
にいる」と言われた。両親は主がいる所を、違った場所に探して、
見つける事ができなかった。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまりま
す」の主に、私たちもとどまる事が大切だ。

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神の子が、へりくだって両親に仕えられた。驚くべき事だが、主は
仕えられるためでなく、仕えるために来たと。主はへりくだったと
ころにおられ、父の家におられる。そこに居ることが主とひとつで
あり、平安の場所だ。