2017年09月08日(金) 「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8
「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8
ルステラでのこと、生まれながらの足なえの男性がいて、生まれて 一度も歩いた事がなかった。その人が丁度そこに座っていて、パウ ロが語る御言葉にじっと聞き入っていた。彼は自分の足に関して、 完全に無力であった。何の方法もなく、どうする事もできなかった。 どうやっても歩く事は不可能だった。自らに全く望みを置けない、 徹底的に無力の状態だった。 自分で何もする事ができない。その時に、パウロが「自分の足で、 まっすぐに立ちなさい」と言った。彼は、そのパウロの言葉に全身 ですがった。無力だったから、すがれた。彼にはこの言葉しかなか ったのだから。すべての望みを置いて信じて賭けた。この言葉がす べてだった。その言葉に拠り頼んだ。 信仰が働き、神の力が臨み奇跡が起きた。生まれて一度も歩いた事 のない彼が、飛び上がって歩き出した。私達も自らの完全無力を知 る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信 じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力がある限 り、自分でやって行く。自分の方法に頼り、自分を信頼して行く。 そこに、神への信仰は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力 でやって行く。信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼 りに、自分を任せて行く事だ。そうなら、自らの無力を知る事こそ、 大きな祝福であり、幸いだ。 ------------ 信仰だけでなく何か他の方法で自分を立たせていないだろうか。自 分を安全な場所に置いてどうして神の働きを信じぬくことが出来る だろう。完全に無力にさせられる時こそ平安がある。