2019年07月09日(火)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかった からです」詩篇102:17



ある男性が、高齢になり足腰が弱っていたが、とうとう車椅子とな
り、人手を借りなくては、移動ができなくなって来た。礼拝出席も
一人では不可能な状況となった。若い時は、人に助けられるのが嫌
いで、絶対に人の手を借りたくなかった。プライドであった。しか
し自分自身も変えられた。礼拝出席はどうすればよいのか、切なる
祈りを献げた。

するとそんな中、礼拝出席サポートの申し出が来た。心から感謝し
て受けた。祈りの答えであり、主からの助けと受け取れたからだ。
以前なら拒否反応だった事だろう。受ける事が、上下関係の下に思
えていた。助けを求められない事が、自らの弱さであった。しかし
今は、主ご自身からのサポートとの目で見れるようになった。そし
てその相手に心から感謝でき、感謝して受けることができて、自分
自身は平安に満ちた。

ある人は、ずっと第一線でバリバリと働き、どんどん成果を出して
いた。そんな中、体調を崩したのだが、突然の思いもよらない難病
の発覚に驚かされた。ハードな仕事は到底無理で辞職した。突如の
人生の窮地に、祈りに祈った。とにかく祈った。心の思いを何もか
も聞いて頂いた。その時に「主は与え、主は取られる。主の御名は
ほむべきかな」との御言葉が臨んだ。

暗闇の方へ引っ張られようとする思いがストップされた。御言葉が
救ってくれた。疑いや不信感等、幾らでもネガティブの方向へ行け
るが、御言葉に立ち続けた。今まで与えられたものは、主によるの
であり、それを取られるのも主。自分はどうであれ、これから先も、
主を礼拝して生きて行こうと、心が平安にされた。窮した時はとに
かく祈ろう。

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どうにもならない窮状の時、絶体絶命の時に、どんなに行き詰まっ
たとしても、私たちには祈りが与えられている。何があっても祈れ
るとは何と有難い、感謝な事だろう。その祈りに答え、主が働いて
下さるとは、何という恵みだろう。窮地の祈りが何度も聞かれたこ
とを思い出す。