2020年05月09日(土)

「約束のみことばはこうです『私は来年の今ごろ来ます。そして、 サラは男の子を産みます』」ローマ9:9


アブラハムは、75歳の時に「生まれ故郷を出て、わたしの示す地に
行け。大いなる国民とし、祝福する」との召しに従い、カナンに向
けて出発した。だが、一向に子供のできる気配は無く、やがて、し
もべエリエゼルを相続人にと考えていた。「子孫を下さらないので、
家の奴隷が跡取りになる」と。

すると主は「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が継が
ねばならない」と。主は彼を外に連れ出し、子孫はこの星のように
なると、天を見上げさせ、満天の星を見せられた。その時、「彼は
主を信じた」。彼は、神の約束を信じた。現に子供はまだ与えられ
ず、気配もなく、常識的にも、見えるところでは受け入れ難い事だ
った。

しかしアブラハムは、神を「信じた」。状況でなく、神ご自身を信
頼した。「望みえない時に望みを抱いて信じた」。望み得ない時に
望みを抱くからこそ、信仰だ。見えないから「信仰」なのであって、
目に見えたなら信仰は必要ない。人間の五感による実感など、全く
無い中、御言葉だけが頼りだった。状況を、目に見える感覚を頼る
なら、どこを見ても信仰など湧かない。目の前の状況から出す結論
は「不可能」だ。

その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。それが
約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け取る
時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、ただ彼のためだけで
なく、また私たちのためです」。私たちも、アブラハムと同じ祝福
にあずかる。

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「みことばはこうです」と、みことばの下に自らを置き。みことば
を握り、サタンに立ち向かうなら、サタンは逃げ去るとある。「何
も思い煩うな」「わたしだ、恐れることはない」と言われる。状況
でなく、み言葉の方を信じて、主の平安の中におらせて頂こう。