2025年01月09日(木) 「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:3
「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:3
目の前に問題が起きる時、必ず「なぜ?どうして?」という問いが、 心に湧き上がる。対人関係の悩み、重病の発覚、経済的苦境、登校 拒否、別離、様々な問題に出会す時、答えが欲しい。理由を探し出 したい思いに駆られる。「なぜ?」、しばしば無意識にも自分以外 のところに原因を、落とし所を探し出そうとしてしまう。そうする と、誰かのせいになる。そして犯人探しをする。 弟子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目なの は、この人の罪か、それとも両親のせいか」と。「誰のせい?」な のかと。しかし主は、本人のせいでも、両親のせいでもない、誰の せいでもない、「神のわざのため」と答えられた。私たちは、人生 において「どうしてこんな事が」「なぜ自分がこんな目に」と思う ような、不意の突如の苦しみや悲しみを経験する。 皆、必ず様々な試練に会う。苦しく辛いばかりだ。わけのわからな い所も通る。過去はどうだろう。間違っていたなら悔い改め、しか し尚も自分を責め、誰かを責め、犯人探しをしているだろうか。だ がそこには答えが無い。平安も無い。主は、「みわざが現われるた め」と言われた。主の素晴らしさを知り、主のみわざを見るためと の、信仰に立てるよう祈ろう。 どんな苦しみ痛みも、必ず万事益とされ、その事で神ご自身を更に 深く知り、神のご愛を、あわれみを知る事とされる。突然の困難に、 「なぜ?」を「主のみわざが現われるため」に立ち、主のわざを見 せて下さい、教えて下さいと求めよう。 ----------- なぜこうなったのか、もっと良い方法がなかったのかと、結果に対 して罪の意識を重ねていく。そこには信仰の光があるだろうか。主 の御約束を信じ、主のみわざだけを見ていよう。