2025年02月06日(木)

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサ レムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」ルカ9:51



主が、エルサレムに向かおうと、御顔をまっすぐに向けられた。
「まっすぐに」つまり、十字架への決意を固め、定められた。サマ
リヤを通過するので、宿のために、使いを先に遣わし、準備させら
れた。しかしサマリヤでは、主を受け入れず、協力もしなかった。
その時、弟子たちが「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼ら
を焼き滅ぼしましょうか」と言った。

敵対する者たちは、裁かれてしかるべきだと。当然のことだと。し
かし、主は、彼らを戒められた。人の思いと、神の思いには大きな
へだたりがある。弟子たちは、主と自分たちが軽んじられたことに、
腹を立てた。プライドが傷ついたためだ。しかし主が、エルサレム
へ向かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架にかかるためだ。

神のあり方を捨てられ、ご自分を無にし、自分を卑しくし、すべて
の罪を身に引き受け、あがないを成し遂げるためだった。主は、御
父に徹底して従われた。しかし、弟子たちには、全く通じず、理解
できず、その少し前には、この中で誰が一番偉いかと議論していた。
何と、かけ離れた、方向違いだろう。

主は、一番小さな者が一番偉いのだと諭された。主が、まっすぐに
御顔をエルサレムに向けられたように、私たちの進む道も、十字架
の道だ。自分の思いを遂げるのでなく、自分の肉の思いを捨てて、
主の御心に歩む道だ。しかしその時、主とひとつで、それは平安の
道であり、主に喜ばれる道だ。
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自分を低く、無にすることは難しい。自分が軽んじられないように
と意識し、またそのような祈りをしてしまう。決して低くなれない
事を認めて、主に従いたいと祈りたい。