2005年06月08日(水)

『「そんなことをした男は死刑だ・・」ナタンはダビデに言った「あなたがその男です」』(Uサムエル12:5)

ダビデは預言者ナタンの例えの話を聞き、人の大切な
たった一匹の子羊を奪ったその者に裁きを下した。彼は
その時に自分自身を罪に定めたのだ。人の欠点はよくわか
るし、している事ははっきり見える。しかし、自分の事は
なかなかわからない。他人に対してはシビアに裁くが、自分
には極めて甘い。更には言い訳、弁解をし、相手や環境の
せいにし、自分を正当化する。そうしている限り、真っ暗闇
の中だ。御言葉は鏡だ。自分の顔の汚れは鏡を見ない限
りわからない。他の何をしてもわからない。鏡を見て初めて
汚れを知る。御言葉は自らの間違いをはっきりと照らし出
してくれる鏡だ。自らの心の中が映し出される。良い事をし
たとして、その動機はどうか、態度はどうか。動機が重要だ。
外に見えない心の内が明らかにされる。人の罪は目の前に
あるが、自らの罪は内部深くにある。
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人の内側のものと心とは深い。自分の肉は自らを神とし、自分
が指令、自分中心にしか考えられない。主を十字架につけて
平然と見ている。人の心は何よりも陰険で直らない。聖霊の光
のみが、奥深くの陰険な罪を照らし出す。光に射されて認める時、
即、血潮の赦しがある。光の中にいたい。