2006年09月08日(金) 「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18
「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18
弟子達は目がさえぎられていた。 かたわらを歩いておられる方が主 イエスだとはわからなかった。 なぜ、わからなかったのか。御言 葉によると「信じない、心の鈍い 人たち」とある。不信仰が目をさ えぎっていたと。復活を信じない 彼らは、主が死んでしまい深い失 望と落胆の中にあった。悲しみも あった。私達も失望の中にいる時、 主が見えない。「失望」とは主に 期待を向けない、主を見限った不 信仰だ。不信仰は私達の心をふさ ぎ、主を見えなくする。 又、「自己憐憫」は自分の殻にこ もり、主を排除するので、ただ見 るのは自分だけだ。又、「不安」 も目がさえぎられる。思い煩いに 支配され、心配の山だけが見えて、 主が見えない。「多忙」も目の前 の事柄に心が捕らわれ、主を認め る事をさせなくする。あなたも今、 目がさえぎられているか。障害物 に気づき、悔い改めよう。それを 取り除けて頂こう。今もあなたの あなたのかたわらに主がおられる。 -------------------- 何に目をさえぎられているのだろ う。このことも主の憐れみなくて は示されなけれない。かたわらに おられるはずの主が遠くに感じら れる時、不安や焦燥感にかられる 時、主に求めて真に自由になろう。