2006年10月09日(月)

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9





姦淫の女は石打ちの刑だと断罪し
た人々は、その投げた石がそのま
ま自分に返って来た。罪の無い者
が石を投げよ、と言われた時、主
のその言葉で自らの姿が映し出さ
れた。彼らは罪がわかったから、
投げる事が出来ずに去った。
しかし、彼らは主の前から逃げた
のだ。律法学者やパリサイ人は、
はっきりと自分の姿を見た。
これは天国への一歩手前だ。しか
し、逃げ去った。ところが姦淫の
女は、逃げずにそのままそこにと
どまった。その女は主から全き赦
しを受け取った。私達はどうだろ
う。日ごとに、御言葉に向かう時、
自らの姿が映し出される。
メッセージを通して、自分の罪が
示される。自分の醜い、汚れた、
自我にまみれた姿を見るのは痛い。
プライドが傷つく。認めたくない。
棚に押し込めたいし、触れずにふ
たをして置きたい。私達も逃げる
だろうか。逃げないでとどまった
女のように、映し出された本当の
自分を認めよう。そこから造り変
えられて行く。何より主の深い愛
を知って行く。
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年長者から去っていったのは罪深
い醜い自分を歳を重ねる度に知ら
されている、しかし認められない
からだ。私達も醜く、汚れた者に
違いないが、いくつになっても
主に「聖められたい!」と切に願
う者でありたい。