2007年04月08日(日)

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、私と福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです」マルコ8:35



アダムとエバは、神に頼りきって、喜びの
交わりの中で全き平安だった。罪を犯し
た時、霊が死んだ。神との交わりが断たれ、
自己意識に目覚め、裸である事を知っ
た。しかし、恥のため、互いに自分を隠し、
神からも隠れる事になった。心に闇を持
つようになる。そして何の不安もなく、神
に頼っていたのが、自分で生きて行かね
ばならなくなった。自分が神となり、自分
の判断、知恵、力を駆使して生きる事
となった。罪を選んだゆえ、すべてが自分
の肩にかかって来たのだ。自分が王であ
り、自分の思い通りに生きて行く。動
機はどこまでも自分の栄光のためだ。こ
れが罪の結果であり、私達の姿だ。主は
ここから救い出し、解放するために死んで
下さった。「自分を捨て、自分の十字架
を負い、ついて来なさい」自分の思い、
方法、自分の栄光を捨てて行く時に、
自由にされ、キリストのいのちを見い出
して行く。どうあがいても、自分のために
しか生きられない者が、神のために生き
る者と変えられる。奇跡だ。この時に、
心の奥底から生ける水の川が流れ出る
事を経験する。聖霊の喜びを知る。
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自我はどこまでも死にたくない。自分の
徹底した破れ果てた惨めさなど認めたく
ない。認められない。だから愛がわから
ない。十字架の愛が真にわかるのは自分
に絶望した時だ。だから恵みだ。