2007年12月09日(日)

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7



ダビデがバテシバと姦淫し、それを
隠蔽するために、夫ウリヤを殺害し
た。神はこの事のために、預言者ナ
タンをダビデのもとに遣わされた。
ナタンは例えを用いてダビデの罪を
暴いた。「大富豪は多くの羊を持ち、
貧乏な男は、一匹の小羊だけを持って
いた。その小羊を愛情込め大切に育
てていた。だが、大富豪は訪問者が
あった時、自分の羊を惜しみ、貧乏
な男の羊を取り上げ、調理してもて
なした」ダビデはその話を聞くや、
激怒し、そんな男は、即刻死刑だと
叫んだ。それはダビデ自身の姿であり、
自分を投影したのだ。自分自身に良心の
呵責があり、責めがあったから、厳し
くその男を断罪した。自分を裁いてい
たので、人をも裁いた。ダビデはナタン
の指摘により、罪を認め悔い改めた。
主もまた、悔い改めた者の罪を見過
ごされた。ダビデは詩篇で「一日中う
めいて骨々疲れ果て」「御手が昼も
夜も重くのしかかり、骨髄は夏の日
でりでかわき」と悔い改める前の悶え
苦しみを記している。ダビデは罪を告
白できて、赦されて、どんなに心が
楽になった事だろう。何をもってして
も代えられない安堵を得た事だろう。
主は罪人の罪を負われた。自分が
罪人である限り、無罪放免だと言わ
れる。しかし、自分を正当化するなら、
罪は無いと言うなら、神を偽り者とする
ので、赦しも無いし、御言葉も私の内
に無い事になってしまう。御霊が示し
て下さる罪を悔い改めよう。完全な赦
しと交換して下さる。
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いつの場合も、自らの罪を認めること
を求められる。これが自我ゆえに認
めたくなくて、自分を正当化してしまう。
しかし、認める時、心が変えられる。
心が楽になり、安堵と平安が臨んで来る。