2008年04月06日(日)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3

彼は生まれつきの盲人だった。実際の
世界を一度も見た事がなく、人から聞
いて、又、手で触れて、思いの中で想
像していただろう。自分で何をどうす
る事もできず、人に依存し、人のお恵
みで暮らすしかなかった。人の助け無
しに生きられないというのは、どんな
にか屈辱であり、プライドが傷つき、
無力感、敗北感の中にいた事だろう。
又、当時は生まれつき盲人であるのは、
罪の報いという、因果応報の迷信があ
った。だから、弟子達も、本人の罪か、
先祖の罪かと露骨な、配慮も何もない
侮辱的な質問をした。その時に、主は
驚くべき答えをされた。「神のわざが
この人に現れるため」と。この人々か
ら見捨てられ、蔑まれていた盲人は、
自分の姿ではないだろうか。自己を神
とし、どんなに頑張っても、自分のた
めにしか生きる事ができず、プライド
は高く、人を妬み、虚栄で突っ張り、
人と比較し、競争し、優越感と劣等感
を行き来している自分。心では互いに
妬み合い、人を馬鹿にし、優位に立と
うとし、不満と思い煩いの中で生きて
いる私達。そんな者に、あなたが存在
するのは「神のわざが現れるため」と
の御心を表して下さった。罪にまみれ
た私達が、血潮のゆえに全く赦され、
神のわざが現される生涯、尊い者とさ
れているのは、何という恵みだろう。
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どろどろの罪まみれの中から救い出し
て下さり、神の栄光を現わす生涯とし
て下さるなどと、何というあわれみで
あり、光栄だろう。「神のわざが現れ
るため」自分自身への言葉として受け
取ろう。