2008年06月08日(日)

「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった」出エジプト15:25

出エジプトを果たした後、民はシュルの荒野
に出て、3日間荒野を歩いた。水が無く、マ
ラに来たがマラの水は苦くて飲めなかった。
民達はあれほどの奇跡を見たに関わらず、目
の前に水が無いという事で失望し、途端不平
不満で一杯になった。不満をモーセにぶつけ
た。モーセが主に叫ぶや、主は一本の木を示
され、それを投げ入れると、苦い水が甘くな
った。私たちの信仰生活どうだろう。時々
落胆し、行き詰まって戸惑い、不安と思い煩
いに襲われ、妬み憎しみでがんじがらめにな
り、様々な苦い水が溜まる。どのように甘く
なるのか。一本の木は十字架だ。主イエスの
十字架が苦い心を甘くしてくれる。心がドロ
ドロになった時は主の十字架のもとへ行こう。
ある人は苦しみ嘆きの中で十字架をひたすら
仰ぎ続けた時、主の御前に自らが砕かれ、く
ずおれた。自分は一体何者なのか。いっさい
の言い訳を止めて、主に心を向ける時、御霊
は心を照らし出す。思い煩いの中に巣くう不
信仰、自分の力に頼る高慢、相手を責めて辛
くなっていたが、実は自分の心にあるプライ
ド、虚栄心、競争心、優越・劣等感、本当の
姿を見せられる。人を責め、環境に文句を言
い、不満で心が苦しくなっているが、真の問
題が何であるかを知る。自らの罪を認め、悔
い改める時、心がすっきりし喜びが満ちる。
新たに主を知り、苦みが甘みに変えられる。
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十字架のもとへ行く時、心砕かれる。罪の無
い方が罪となられ、苦しまれた。自分は罪人
なのに、自己主張、自己憐憫、自己正当化、
自分、自分。十字架をじっと見る時、十字架
から癒しが流れ出る。