2009年01月08日(木)

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37



「ノー」が言えるだろうか。食事や遊びの誘い、残業の依頼、様々な頼まれ事・・、したくないのに、無理なのに、「ノー」が言えなくて、嫌々引き受けてしまう。

段々、辛くなり重荷になって来る。断れば良かったと後悔する。
又、そうできない自分に自己嫌悪となる。
はたまた、クリスチャンは喜んでできない自分を責める。

そうなると相手を恨みに思って来る。怒りも湧いて来る。そしてそう思う自分を又、責める。「ノー」が言えないのは、相手が嫌な思いをするのではないか、それを自分が受け入れられないからだ。

又、相手に嫌われたくない。又、義務感もある。クリスチャンは相手に仕えなければならないのではと。断れば、愛が無いのではと。

しかし、それは嫌々、又、嫌々でないにしても、義務からする事になる。愛から出ておらず、そこに愛はない。

「割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」「偽りのない信仰から出て来る愛を目標としています」「愛がないなら、何の値うちもありません」まず自分に愛の無い事を認める時、神が愛を与えて下さる。

身体的、時間的、労力的には限界があり、無理な事、できない事には、はっきりと「ノー」を言う事が御心であり、そうするなら、真に御心の事柄を充分に行ってゆける。
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「ノー」が言えなくてやっているのに犠牲を払った行為とすりかえる事がよくある。やりたくないです、とまず素直に祈ってみよう。「はい」と「いいえ」を混じり気のない思いで言いたい。