2009年03月08日(日)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Tヨハネ3:17

こんな人が目の前にいたらどうだろう。
いつもケチをつける人、何かにつけて文句ばかり言う人、自分の思い込みで決め
つける人、自分の事を喋るばかりで、人の話を聞かない人、いつも自慢する人、
人のあら探しばかりしている人、人の悪口ばかり言う人・・とてもじゃないが、
「好き」になれない。

しかし、聖書に一言も、相手を好きになれとは言っていない。「愛しなさい」だ。
愛する事は、好きになる事ではない。好きになれなくても構わない。好きになれ
ずとも、愛することはできる。

聖書の中で言っている愛は、すべて「意志的愛」だ。感情の愛ではなく、意志の
愛だ。浮き沈みの激しい感情に、愛が依存していたなら、どこへ行くかわからな
い。感情はコントロール不能だ。

しかし、意志はコントロールできる。愛するとは、相手の必要が生じた時に、自
分に出来ることで犠牲を払うことだ。自らの時間、労力、富の一部を献げること
だ。

「塩狩峠」のように命を献げるなどと、大きな事は普通の人生では起こらない。
日常で、目の前の事、小さな事であっても、自分の持っているものを与えて行く
こと、それが愛することだ。

自分にできる事をすればよい。今、具体的に聖霊によって示される事があるだろ
うか。行ないと真実をもって愛するなら、神の御前に心を安らかにされる。

そして大胆に神の御前に出ることができ、求めるものは何でも頂くことができる。

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愛するとは、御霊の示されるままに、自分の時間、労力、富を献げることだ。自
分に出来ることで、少しの犠牲を払うこと。それが行ないと真実をもって愛する
ことであり、神に喜ばれることだ。神に従うので、祈りが答えられて行く。