2009年04月04日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ」Tヨハネ1:9

      
                         
ある人が、長年、父親との確執があり、父親を恨み、憎み、悶々状態だった。
神を信じた後、その事が取り扱われた。

苦しみの中にいた。憎み続けて苦しくてたまらないのは相手でなく、自分なのだ。
心が、どうにもならず、がんじがらめだった。

まさに牢獄の中にいた。二四時間、囚われの身であり、父親が目の前にいようと、
いまいと関係ない。楽しい時にも、ふっと思いがよぎるだけで心が沈み暗くなっ
た。囚人そのものだ。

神の御前に、この事を差し出し、祈った。聖霊は心に示された。あの時、ああで、
この時こうで、こうなったのは、父親のせいだと思っている事。それで父親を恨
み、赦せないと思っている事。

しかし、父親を責めていれば、自分を見なくて済む事も。そして、父親がどうで
あれ、その父親を憎む事は、自分の側の問題であり、それは紛れもなく自分の罪
である事を。

それがわかった時、どうであれ父親を憎む事自体は、自分の罪と、神の前に自ら
の罪を認め、悔い改めた。その時、涙が溢れ、心が溶かされて行くのを感じた。

神の赦しを実感し、心が穏やかになり、平安になった。そしてあの憎しみと苦し
みが不思議に消えた。相手に関わらず、自分の感情、思いは自分の責任だ。それ
を認めて、悔い改める事が、責任を取るという事だ。 

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相手にも非があった時、相手が悪いから、自分の心が苦しい、相手のせいで自分
が辛いとしか見えないが、そうではない。相手でなく、自分に相手への苦い思い
があるからであり、自分の問題だ。でなければ、自分は平安であるはずだ。自分
と神の問題であり、そこに気づく時、解放されて行く。