2009年11月07日(土)

「『わたしは・・心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため』」イザヤ57:15

私たちは、「へりくだり、謙遜」と「卑下」を勘違いする事がある。自己卑下と
は、「いえいえ、自分はつまらない者です」「何の取り柄もありません」「自分
はだめ人間」と劣ったものとして、卑しめる。

そして、どうせ何をしてもダメと気力が失せ、ますます劣等感に輪をかけ、自分
で自分を決めつけ、強固なものにする。しかし、そこには何の信仰もない。

又、偽りの謙遜というものがある。腰を低くする事が謙遜と勘違いし、「いえ私
などは」と決して上座へは行かず、下座でうろうろする。しかし、もし自ら上座
に座る人がいれば、心は裁きで一杯になる。

真の謙遜は砕かれるところから来る。高慢でしかない者が、砕かれる時、高慢で
いる事ができなくなる。主の取り扱いが感謝だ。神の愛と聞くと、ほんわかと暖
かく喜びで一杯、心地良い様を連想するだろうか。人間の価値観では、痛い辛い
事と相容れない。何かの罰か、愛されていないのでは思ってしまう。肉の思いだ。

断じてそうではない。「愛する者を懲らしめ」とあり「懲らしめ=愛」が神の
価値観だ。愛されているからこそ、訓練が来ている。

砕きは痛いが、もし成長を願うなら、これなしにはあり得ない。信仰生活が長く
なると、聖書知識は幾らでも増すが、知識は人を高ぶらせて行く。信仰も強いが
自我も強いということになる。

砕かれる時、高ぶれなくなる。どんなに成功しても慢心せず、神と神の恵みを認
め、神に栄光を帰して行く者に変えられる。今、試練があれば、砕きは極めて痛
いが、最高の益である事を覚えよう。必ず後に、感謝できる。

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砕きは、痛くて苦しくて辛いが、振り返った時、心底感謝できる。無ければ、自
分はどんなに高慢な者になっていただろう。人の思いとは違う形の、神の愛を受
け取って行ける者に、変えられて行きたい。