2010年01月08日(金)

「・・父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をき、口づけした」ルカ15:20



放蕩三昧で帰宅した弟息子を、父親は喜び迎えて宴会を開いた。ここに兄が帰って来るが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自分は今まで遊びもせず、我慢して、懸命に父のもとで働いて来た。

それを好き放題して、財産持ち崩して、遊びほうけて帰宅した弟のために宴会とは、一体どういう事か。納得が行かない。怒りがおさまらない。この世の価値観から見ると、兄の方が常識的に見えてしまう。

こんな父親がいたら、人は言うだろう。そんな甘い事でどうする。世の中は甘くない。もっと厳しく扱うべきだ。又、同じ事をするに決まっている。まず働かせてみて、本気かどうか確かめろ。それまで雇い人の方がよい。そうすべきだ。

弟も弟だ。家に入る前に、何か一言あるだろ。これが世の価値観だ。だから、兄の方に納得が行ってしまう。しかし、神の価値観は違った。父親は、息子がどうであれ、何をして来て、今どんな状態であれ、とことん受け入れた。

ぼろぼろで、打ちのめされた、そのままを受け入れた。又、弟息子だけでなく、怒り、反発する兄息子をも、全く責めも、とがめもしていない。兄息子も受け入れている。神の愛はこのようであり、神の私たちに対する愛はこういうことだと。

罪ばかり犯すどんなにダメ人間でも、打ちのめされて、ぼろぼろでも、徹底的に受け入れ、包み込んで下さっている。
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自分が罪ばかり犯す駄目人間だと思えない兄は、御父の側で暮らしていてもその愛もあわれみも、赦しも何も知れなかったのか。自分を兄の立場において、何と不公平な!と思ってしまう所に同じ傲慢さを示される。