2010年06月07日(月)

「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」ヨハネ17:5


主は、十字架の死の前に「父よ、時が来ました・・子の栄光を現して下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。「どこが?これが神の子?」と惨めで哀れな姿、その苦しみが神の栄光である事を、主は知っておられた。

両手両足を釘づけられて、さらされた姿で、いっさいの抵抗も出来ない。なされるがままであり、これこそ無力の極みで、しかし、これが栄光だと。「栄光」と聞くと、大成功で、うまく行く事、失敗の逆を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子供は皆良い子、立身出世、商売繁盛、夫婦円満、こういう事が栄光だと思っていないか。しかし、十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で輝かせて下さい」と言われた栄光であった。

大成功だけが、栄光なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、失敗であっても、そこで、あなたが御霊に従うなら、神はあなたを通して「栄光」を現わされる。姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の真逆だ。しかし、真摯に悔い改めたダビデは、素晴らしく主の栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き上げられただろう。どんな状況であれ、ただ御霊の導きに従おう。
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神の栄光の輝きをさえぎるものが自分だ。逆境の中にあっても平安でおれ喜んでおられるのは、内におられる御霊に従い主を見ているからだ。神の前に自分を置かず謙遜に御霊に従い、神の栄光を輝かす者になりたい。