2010年10月08日(金)

「そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。」ガラテヤ5:8


主に従い、御言葉に従おうとする時に、衝突して来るものがある。この世の価値観や、習慣、考え方だ。一見妥当に見え、常識的に見える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自力で一生懸命に頑張るのが善であり、美徳だ。救われてまことの神に向き合うや、これまで以上に真面目に、忠実でなければと、
信仰生活とは厳しい修練だと思う。

自分の力で従うなら苦しいばかりだ。しかし苦労は美徳、苦しいのは当然、むしろ苦しいと安心感があったりする。修業している気になれる。特に日本人気質に合致する。これら世の価値観から来ている。

しかし、実は真理と真逆の方向に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事が問題となっている。割礼によって義と認められようとするなら、恵みから落ちてしまっていると。何かをする事によって、神に認められようとする事は、もはや恵みではない。キリストから離れてしまっている。

信仰生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でなく、すでに受け入れられ、100%の愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由意志で神に従って行くものだ。「ねばならない」義務ではいっさいなく、「愛によって働く信仰」愛が動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。そこには自由な喜びと平
安がある。
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「ねばならない」を重ね、自分で足固めし認めて貰おうとするのは美徳のようで、とても傲慢だ。神の恵みを無駄にしてはいけない。主の十字架により神の子とされ受け入れられているこの立場は変わらない。そこから今するべき事を見て行こう。