2011年02月05日(土)

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10

自分は「何のために」信仰しているだろう。もし信仰が、自分が求めている何か
を得る「手段」なら、自分の欲しいものを手にしたなら、もう信仰は不要になる。

又、もし手段であるなら、何が何でも欲しいのなら、別に他の手段でも良い事に
なる。サタンは「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。「欲しいも
のを何でも上げるよ」と、そのサタンの誘惑に乗ってしまう。目的のものを得た
いだけであり、誰がくれようと構わない。

しかし、主にとっては、御父を礼拝する事は、何かを得る手段でなく「目的」で
あられた。もし信仰が、より良い人生、より高尚な生活、人格者になる事、自己
実現のための手段なら、神が自分の思い通り、期待通りに動いてくれなかったら、
遅かれ早かれ失望する。

神の愛を疑い、離れ去る。形だけ礼拝はしていても、心には何の喜びもない。実
質、得るものが何も無いのだから。しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を
得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜
びを失う事はない。そして神を愛して行く。

「何のために」信仰しているだろう。「何もかも捨てて従いました。ついては、
何がいただけるでしょうか」どこまでも自分の利益のためだろうか。神を愛する
ためだろうか。どうであれ神は私たちを変わらずあるがまま愛して下さっている。
神がまず愛して下さった、その初めの愛にいつも帰ろう。

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富、地位、人の賞賛、自己実現・・神でなく、それらを第一に拝めと、サタンは自
らの姿を隠し、そういう形で誘惑をしかけて来る。それを手にしたら幸せになれ
ると。サタンの偽りであり、本当の喜びと平安は、神を神として崇めて行くとこ
ろにある。