2011年04月07日(木)

「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3


ある人が長年第一線で、やり手でバリバリ働いていた。ところが、仕事に行き詰まり、そこに対人関係も絡み、体調を崩して止むなく退かねばならなくなった。その時に、ひどい落ち込みに陥った。仕事が出来ていた時は、自分が価値のある人間と思えていたが、出来なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。

非常な苦しみであり、どうやっても受け入れ難い事であった。様々な弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だった。仕事上の大きな失敗を、人のせいにしようとしている自分、人を赦せない自分に苦しんだ。心が悶々状態で、苦しくてどうにもならず、主の御前に出た。

御前に静まり、何もかもをことごとく打ち明け、気持ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事が真にわかった。主の赦しの愛を全身に受け取った。そして、主は完全に赦して下
さっているのに、自分が自分を赦していない事を示された。

自分を赦せた時、人をも赦す事ができた。何が出来なくとも、このままの存在を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛に癒された。自分を裁く事を止めた時、人を裁く事も止んだ。
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自分を人を過信すると失敗の度に落ちこむ。無に等しい者として神が召して下さったことに感謝し人の判定、人の前にどうであるかから解放されよう。神の前に真実であるよう、ただそれだけを目指して歩もう。