2012年06月07日(木)
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「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・」ピリピ2:6
ある牧師の証しだ。若い神学生の頃、学生たちと、ちょっとした事でトラブルになり、言い争いになってしまい、お互いに口もきかない状態になってしまった。怒りが湧き、赦せない思いは、心が苦しく、悶々の日々であった。腹が立って〃絶対に赦したくない。しかし、賛美を導いたり、メッセージの当番があり、回って来る。こんなままでメッセージ準備が出来るはずもなく、どうしようもなく、しかし腹立ちがおさまらない。とうとうせっぱ詰まり、主の御前に出て、あるがままを申し上げ、祈った。
怒り、赦せない思い、敵対心・・何もかもを打ち明け、じっと主の御前にいた。その時、主の十字架が目の前に浮かび上がり、罪の無い方が、自分の罪を負っておられ、自分のために何もかもを捨てられた。それにひき替え、自分はというと、自己主張、自己防衛、自己憐憫、自己正当化、どこまでも、ただ〃自分、自分・・。涙が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわかった。
あんなに苦しい悶々状態であったのに、心が平安になってしまった。仲間に謝り、和解できた。喜びと平安をもって、奉仕にあずかれた。悶々状態に陥った時は、じっと十字架を仰ごう。「・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」主を見つめ続けよう。
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自分、自分と主張して躓くことも砕かれる事もないなら、人はどこまで傲慢になる事だろう。出っ張る度にこの御言葉に応答し、主の十字架の下に戻って行こう。
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