2013年07月08日(月)

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」マルコ7:21


この世の価値観では、外から入るものが、人を汚すと思われている。そのため、犯罪者の環境や成育歴が、問題にされる。生い立ちが不幸で、親の育て方が悪い、社会が悪い、だから罪を犯すと。それで、環境が良くなれば、社会が良くなれば、人間は良くなるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。つまり、人間は生まれつき善人であるが、環境が悪かったので、罪を犯したとなる。

しかし、聖書は正反対のことを言う。人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから、罪を犯す。「義人はいない。ひとりもいない」と。外側からのものではない。環境ではなく、人の内側から出て来るものが、人を汚す。「悪い考え、不品行、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。心が喜びで満たされた人が、突然、殺人などしない。殺人の前に、心が強い憎しみ、欲求不満、劣等感、妬み・・で、許容量越えとなっている。内側から湧き出て来る。泉のように抑えても〃湧き上がる。自分の「罪」の問題だ。

これはどうにもならない。又、自分の罪だと認めることは、非常に痛いので、したくない事なので、環境のせい、社会のせい、人のせいにしておきたい。そうすれば自分を見なくて済む。しかし、そこに何の解決も無い。主は、その「罪」の解決のために、十字架で血を流して下さった。自分の罪を認め、責任を取ることが、「悔い改め」ることだ。その時、全く新しい歩みが備えられている。
-------------
示された罪をどれだけ主の前に正直に認めて行くかは、信仰生活の大切なポイントだ。主の十字架の赦しを自分の事として知り、また人の罪にも寛容にされる。罪を曖昧にしてくり返すより一歩一歩、主に頼る歩みへと変えられたい。