2013年09月06日(金)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ4:4


   
ある人々は、聖書を読むと責められるように感じて、辛くなって、余計落ち込んでしまうという。「隣り人を愛し、敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」とても出来ないからだ。完全でなければ失格と思ってしまう。しかし、それは律法主義だ。律法は私達を責めて追い立てる。これで十分という事が決して無い。

「今のままの自分ではダメだ、もっともっと〜」「あれもこれもしなければ」「自分は足らない」「休むな」「もっと頑張れ」「頑張りが足らない」「する事は山をなしている。早く、早く」心は焦り、荷は山となし、追い立てられ、常に自分は足らない。全く平安は無く、喜びも無い。辛く苦しいばかりだ。信仰することが苦しい。

これは律法主義に陥っている。自分が立ち上がって背負うので、自分の肩にすべての荷がかかってくる。それは、何かをする事によって、神に認められようとしている。それならキリストから離れていると言われる。恵みでなく律法のもとにいる。恵みはこうだ。「私」は何一つする事ができない。だからこそ十字架があり、すべての義務から解き放たれている。内に住まれている「主」が一つ一つ成し遂げて下さる。

私はその主を信頼し、安堵し、喜びつつ、その主と共に一つ一つあずかって行く。それを喜びとされる。一つ為すごとに共なる主を知れ、更に喜びを味わう。素晴らしい恵みの歩みだ。まずあるがままの自らの状態を主に告げて行こう。導いて下さる。
------------
あれも出来ない、これも出来ないと責めるのは主ではなく自分だ。ひとつ、ひとつ主に助けを求めながら喜び溢れる信仰生活を歩んで行こう。