2013年10月07日(月)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7




イスラエルの民は、乳と蜜の流れる約束の地を目指して前進し、神を信じて来た。そのカナンの地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」「あなたの神、主を心に据えなさい」と。神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。

ある人が、どうしても欲しいものがあり、祈りに祈っていた。何が何でも欲しい、余りにも強い願望に、ある時、神からもぎ取ろう、奪い取ろうとしている自分の姿を示され、悔いくずおれた。これなら目的さえ果たされるなら、手段は何でも良くなってしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と誘惑して来るサタンでも、いいことになってしまう。心から悔い改めて明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分がより良く生きるため、又、何かを手に入れるための手段にすると、何もかもが的はずれになる。自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りにならない時に必ずつまずく。神に失望落胆し、離れる事になる。又、実質も、実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与えられようと、与えられまいと、神ご自身を信じて、礼拝して生きる事、神を喜ぶ事、これが目的だ。
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目的達成が信仰の目的なら、カナンの地にてまた私達は渇くだろう。与えて!与えて!の信仰ばかりではなく、カナンの地にて神を仰ぎ、日々、神に自分自身を献げながら歩んで行きたい。