2013年11月07日(木)

「・・異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています。だから彼らのまねをしてはいけません」マタイ6:7 


主は「御父は、お願いする先に、必要なものをすでにご存じ」と言われた。では何のために祈るのか。御父がご存じであれば、祈る必要が無いのではないのか。これは異邦人のように、同じ言葉を繰り返し、言葉数が多ければ良いとの態度が間違いとの指摘だ。祈り倒そうとの勢いで、ただ言葉の多いのが勝ちなのではない。言葉数の多い順に聞かれるのではない。だから言葉の繰り返しは無益で無駄だ。

この世の宗教と違い、御父はすでに必要も状況も何もかもをご存じであり、知らない相手に対するごとく、くどくど説明する必要もない。しかし、神は次の節で「だから祈りなさい」と言われた。だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必要を完全に保障するから、いっさい語るな、何も言うな」と言う親はいない。親は子供の語る言葉を聞き、対話したい。

それは親は子供を愛しているので、喜びで楽しみであるからだ。
御父はあなたの声を聞きたいと待っておられる。又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真に必要な物をわかっていない。的はずれに求め、まともだと思っている。自分の誉れ、欲のために求めて気づかない。神はそれらを軌道修正し、正しく導き、あなた自身を変えて下さる。それは祈りの実践の中でのみ可能だ。
----------
主との個人的な交わりである祈りは、すらすらと流れるようには出て来ない。祈りによって自分の本当の心の底を見る。そして、想像をはるかに超えた主の備え、ご愛の一片を知る。ことごとく祈ろう。