2014年05月08日(木)

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24



ヘロデ王は教会を迫害し、ヤコブを殺害した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕らえ、処刑しようとした。しかしペテロは、御使いによって牢から救い出された。奇跡が起きた。「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けていた」の答えだった。

教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく熱心に祈った。だがヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。「なぜ?」と思う。これはヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更に福音宣教の任務が与えられており、それによって、神の栄光を現わす事となる。

ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、奇跡に次ぐ奇跡により進軍して行った。そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しく、苦しめられ」と殉教して行った。

結果的には全く違うどちらもが「信仰によって」歩んだ。パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられること」を求めた。一人〃に備えられた神のご計画が全く違う。自分に与えられた人生、御心を全うする事が、一番の喜びの道だ。
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神様のご計画に、なぜ?どうしてと人間的な意味づけを考えるより、神様が関わって下さっている自分だけの信仰生活「生きるにも死ぬにも」と、少しでも主の御心の人生を歩んで行きたい。