2014年11月07日(金)

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主 の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従っ てしあわせを得るためです」エレミヤ42:6 


神の御声を聞いて従って行くのが、信仰生活であるが、神の御声が
聞こえなくなる事がある。自分の思いで一杯な時は、神の御声を妨
げてしまう。自分の思いがあるばかりで、御声が聞こえない。又、
なすべき事がわかっても、神の計画よりも、自分の計画の方に心が
占領されている時は、御声に従えない。

私たちは、祈りの中で、自由に自分の気持ちを、主に告げるべきだ。
詩編記者は怒りも、悲しみも、苦しみも、嘆きも、何もかもを、正
直な気持ちをぶつけている。又、心の願いを神に祈れと言われてい
る。願いは神のもとへ持って行くとよい。それが神の御心と一致す
るなら、叶えられる。

しかし、すべての願いが叶うのではない。神はご自身の思いを持っ
ておられるので、それが一致するとは限らない。その時は、痛いか
も知れないが、自分の思いよりも遙かに高い神のみ思いがある事を
受け入れて行く時だ。
主がゲッセマネの園で、「しかし、わたしの願いではなく、みここ
ろのとおりにしてください」と祈られ、御父の御心を受け入れて行
かれたように。

自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、大きな祝福にあずか
る。一つ一つ目の前に示される御心に従おう。自分の思いと自分の
計画を捨てて従う時、その時、主のわざを見て行き、主との関係が
深められて行く。

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この箇所でイスラエルの民は、主の御声に従うと言うが、御声を待
つことなく、エジプトに下る判断をする。御心を求める以前に、御
心に従う心の備えが肝心だ。そこを探られつつ、主の示しに従える
よう、御霊の助けを求めて祈ろう。