2015年04月07日(火) 「それは私が、高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです・・これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:7
「それは私が、高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです・・これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:7
パウロは、激しく苦しめられるとげが与えられていた。主のために 支障無く、更に効率的に働けるよう、その障害となる、とげが取ら れるように切に願った。しかし、この願いの答えは「ノー」であり、 取られなかった。とげはそのまま残された。このとげが与えられた 目的は「高ぶらないように」だった。 とげにより、高ぶることから守られる。自分の力でどうにもならず、 主に拠り頼まざるを得ない、へりくだった歩みが与えられた。主に 従う道は、下へ、下へと、へりくだりの歩みだ。主はご自分を卑し くし、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。しかし、肉の性 質は、これを避けて逃れたい。肉は、上へ、上へ、だ。 求めるものは成功であり、人からの賞賛であり、地位、名誉であり、 評価され認められることだ。私たちにも、とげが与えられているだ ろうか。そのとげにより、高ぶりから守られるなら、何という恵み だろう。それは病か、様々な困窮か、難しい対人関係か。 「この病さえ無ければ」「こんな生い立ちでさえ無ければ」「この 環境でさえなければ」「この相手さえいなければ」こんなに苦しむ 事は無いのに・・。「これを去らせて下さい」「環境さえ変われば」 と、熱心に願っただろうか。除かれない代わりに、主の大きな恵み、 深いご愛、慈しみを知ることになる。後の日に、このとげにより高 慢から守られた、と必ず言える。 -------------- 主に頼るしかなく、ヘリくだざるを得ないところで祈る。取り去っ て、思い通りに解放して欲しいと思うが、そこに主がおられ、この ことも主からのものと受け取れるとき、弱い自分のまま感謝できる。