2015年11月07日(土) 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」マタイ20:28
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」マタイ20:28
ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏し て願った。主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣に して欲しいと。そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟 の事で腹を立てた。結局、思いは同じであり、先を越された事に怒 ったのだ。弟子達の間では、互いの間に比較と競争が常にあり、関 心の的は誰が一番かという事だった。 そして皆が思っていた、自分が一番だと。この自己中心こそが、主 を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。自分の価値観、自己 中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心がわからな い。主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」 の出来事だった。何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。 しかし、私たちも同様だ。祈りが答えられない時、自分の願ったも のでない時、反抗と不満で一杯だろうか。結局、神すら利用して、 都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生きたいという 自分。人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲とプライ ド。これが神の心を見えなくする。 主の答えはどうか。「仕える者になりなさい」であった。自己に死 なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は人に仕えたくない、自 分の好きなように生きたい。そのような自分の姿を認め、主に明け 渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。 ------------- 無力で、的外れな者を主がなおも愛し生かしてくださっていること が喜びだ。自分が一番にと願っているなら、主の大切な御心を見失 ってしまう。主に従い仕えていく者に変えられたい。