2016年03月08日(火)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3




私たちは、救われるためには、何もしなかった。何も出来る事はな
かった。十字架の贖いを知り、主を信じただけで、救いを受けた。
一方的な恵みによった。その恵みはよくわかるのだが、救われた途
端、行ないによって生きてしまう。救いは恵みだが、後は自分の力
で、どんどん歩んでしまい、善行に励もうとする。今まで生きて来
た根深い価値観があり、そして世は頑張りがすべての、行ないの価
値観だ。

そのため恵みは頭ではわかるのだが、培われた根深いものに動かさ
れてしまう。ガラテヤのクリスチャンは、救われた後、割礼を受け
なければならないというユダヤ教の教師のもとに戻ってしまう。
しかし「もし、割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって
何の益もない」と。行ないによって義と認められようとするなら、
キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのだと。

行ないによる義は、今までそのように生きて来たので、身にしみつ
いている。自分の頑張りに頼る。頑張って聖書を読み、祈らなけれ
ば、良い行ないをしなければ〜と。段々、苦しくなって来る。しか
し、聖書を読めず、祈れなくても、神の愛は変わらない。なぜなら
神のご性質が愛だから、又、神のご性質が不変だから。

その愛を知る時に、このまま愛されている事を知る時に、聖書を読
んで、祈りたいと自発的に思える。その時、恵みの下だ。自分の頑
張りでなく、御霊によって歩む時、絶えず恵みの中に置かれ、喜び
と自由、平安がある。信仰生活が苦しく、しんどければ、立ち止ま
って、祈ろう。
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愛されているからする行為と、愛されるためにする行為は見える所
は同じでも全く違う。主を見ず、事に仕え、人と比較しながら苦い
思いで頑張っているなら、主の愛が先行していることを覚えよう。